多宝塔(たほうとう)
法華経に登場する宝塔です。1つの蓮台に多宝如来と釈迦如来の二尊が並んで座っておられるのが特徴です。
年に2回だけ開扉し法要が執り行われます。
昭和63年5月5日に落慶しました。
4月8日 花祭り
5月5日 多宝塔開扉法要
十二支(えと)のお地蔵さま
多宝塔の周りには十二支に因んだお姿のお地蔵さまが並んでおられます。ご自分やご家族の干支のお地蔵さまにお参りください。
瑜伽社(ゆがしゃ)
密教道場の守護として瑜伽権現をお祀りするお社です。
※立ち入り不可
閼伽井戸(あかいど)
当山の神仏にお供えする浄水を汲む井戸です。
令和3年4月に改修しました。
※立ち入り不可
鐘楼(しょうろう)
当山の鐘撞き堂です。
12月31日 除夜の鐘
本堂(ほんどう)
無量壽殿(むりょうじゅでん)
本尊 阿弥陀如来(上品下生坐像)
脇侍 観世音菩薩 大勢至菩薩
聖衆二十五菩薩壁画
脇陣 天台大師像 伝教大師像 慈覚大師像
明王院の中心となるお堂です。多くの年中行事のほか、檀信徒のご先祖供養・年回法要の道場です。
平成15年5月5日に復興落慶しました。
1月1日~1月3日 修正会・大般若転読会
2月3日 節分会
2月15日 涅槃会
春分の日 春季彼岸会
4月8日 春季報恩講
6月上旬 入檀式・山家会
8月16日 大施餓鬼会
秋分の日 秋季彼岸会
10月4日 秋季報恩講
11月下旬 天台会
12月8日 成道会
観音堂(かんのんどう)
本尊 聖観世音菩薩
旧本堂であり、檀信徒の永代供養のお位牌をお祀りしています。また檀信徒のご先祖供養・年回法要の道場でもあります。堂内には山号額、寺号額、長峰雅男氏の六道絵が掲げられています。
元禄15年(1702年)に建立されました。
毎月17日 観音講
大仙堂(だいせんどう)
本尊 地蔵菩薩(大仙地蔵尊)
「六条院の大仙さま」として平安時代から信仰を集める大仙地蔵尊をお祀りするお堂です。
毎月24日は「大仙さま」の日(地蔵菩薩のご縁日)として多くの方々が参拝されます。歴史のあるご先祖供養、水子供養の道場です。また中国地蔵尊霊場の第6番札所にもなっています。
堂内には藤澤人牛氏の六道絵が掲げられています。
昭和46年5月5日改築落慶しました。
大仙堂縁起
平安時代中期、白河上皇の第一皇女媞子内親王が御年21歳にして崩ぜられ、父帝は大変お悲しみになり、六条御所をお寺と為してその菩提をお弔いになりました。平忠盛は所領である旧大島郷(現今の備南地域)を寄進して荘園と為し、明王院の本堂前庭に地蔵尊堂を建立してその供養の道場としました。これが当山の大仙堂の起源であり、六条院の名の興る発端でもあります。延宝元年(1673年)に起こった大洪水によって当時の大仙堂は崩壊しましたが、浅口郡中5万人の協力により復興を果たし更なる信仰を集めました。
毎月24日 大仙さま
7月24日 地蔵盆
護摩堂(ごまどう)
本尊 不動明王
当山の祈願道場です。檀信徒各家にお配りするお札やお守り等をご祈願しています。
また古くから修行道場でもあります。
昭和51年に改築落慶しました。
11月1日 札祈祷護摩供
1月8日 新春祈願護摩供
5月5日 夏季祈願護摩供
秋分の日 秋季祈願護摩供
山王社(さんのうしゃ)
天台宗の護法神また鎮守神である山王権現をお祀りするお社です。
忠魂碑(ちゅうこんひ)
英霊の慰霊塔です。戦前の六条院小学校の校庭にあったものを戦後に移転したものです。戦後50年など節目となる年にはご遺族の方々の参列のもと英霊の慰霊法要が執り行われました。
忠魂碑顛末記
終戦後の占領下、GHQから忠魂碑等の速やかな撤去の命令が出されたとの憶測や流言が乱れ飛び、当時六条院小学校にあった忠魂碑も建立者を塗りつぶすなどの案も出されたが最終的には取り壊しの指示が出され、そのまま存置することができなくなりました。遺族をはじめ関係の方々の協議を聞き、当山住職が「自分が責任を持つ」ということになり、明王院境内に移転することが決定し、昭和22年5月に現在地に安置されました。
書院(しょいん)
元禄5年に再建されました。
照隅館(しょうぐうかん)
明王院の寺務所です。お問い合わせやご朱印を受け付けております。
毎月17日 写経会 腕輪念珠作成体験
西国観音霊場の観音さまと善光寺如来(石仏)
境内に祀られています。
弁天社(べんてんしゃ)
水の神様である弁財天をお祀りするお社です。すぐそばには竜神さまをお祀りする塔があります。
宝永元年に造島し勧請されました。
※島内立ち入り禁止
甘露庵(かんろあん)
本尊 阿弥陀如来(現在は改修中)
甘露庵について
天明8年に明王院第26世唯聞により開創された草庵からはじまり、寛政4年4月に唯聞が安楽に入り比丘となりそのときから律院となりました。仏教的、文化的にさまざまな人々の交流が盛んに行われた場所であり、歴史の上でも非常に重要な役割を担っていました。明治5年に甘露庵と公称し安楽律宗の寺院となり、のちに紫雲寺(しうんじ)と改称しました。明王院住職を務めおわり入律して入る律庵の機能を永く果たしていましたが、第38世亮薫代に明王院塔中に還り以後は大護寺(大護教寺)の庵となっています。
穴太積の石垣
仁王門(におうもん)
当山の山門です。文化元年に建立されました。